空海、梵字、五十音
結論。日本語の整理にも、インド語学の影がある
日本語の五十音図は、ただの「あいうえお表」ではない。母音と子音を整理し、音を行と段に並べる発想の背後には、仏教、とくに密教が学んだインド系の音韻学がある。空海ら密教の学僧は、梵字、悉曇、真言、陀羅尼を学び、音そのものに宗教的な意味を見た。
もちろん、五十音図を空海が一人で発明した、と単純化するのは危ない。だが、日本語の音を体系的に見る視線に、サンスクリット学習が影響したことはかなり重要である。
梵字は文字であり、音であり、仏である
密教では、梵字は単なる外国文字ではない。真言を記す文字であり、仏や菩薩を表す種子でもある。例えば一つの梵字が一尊を表す。文字が意味を持つだけでなく、音と形そのものが力を持つと考えられた。
ここで日本語の文字観は揺さぶられる。漢字は意味の文字、仮名は音の文字という整理だけでは足りない。梵字は音であり、形であり、象徴であり、儀礼の道具でもある。日本の書、護符、墓石、曼荼羅、寺院の装飾に梵字が残るのは、そのためだ。
サンスクリットは音をきれいに並べる
サンスクリットの伝統では、音を発音位置や発音方法で体系的に並べる。喉、口蓋、反舌、歯、唇。母音と子音。これはかなり高度な音韻整理で、日本語の五十音図のような「音を表にする」発想と相性がいい。
日本語の五十音図は、あ行、か行、さ行、た行、な行と、母音段を組み合わせて並ぶ。現代人には当たり前だが、これは音を分類する視点がなければ出てこない。密教僧が梵字や悉曇を学んだことは、日本語を音の体系として見る助けになった。
真言は翻訳しない言葉である
仏教経典は多くが漢訳された。しかし真言や陀羅尼は、意味を訳すより音を保つことが重視された。ここが面白い。意味より音、翻訳より発声。サンスクリットの音が、漢字で音写され、日本語で読まれ、儀礼で唱えられる。
これは料理にも似ている。クミンを「馬芹」と訳しても香りは伝わらない。香りはそのまま使うしかない。真言も同じで、意味を日本語に置き換えるだけでは失われるものがある。だから音が保存された。
日本語は外来を食べる
日本語は漢字を受け取り、仮名を作り、梵字を受け取り、アルファベットも受け取った。食文化も同じで、米、味噌、醤油、だしの土台に、唐辛子、カレー粉、洋食、ラーメン、パンを入れてきた。
空海と五十音の話は、料理から遠いようで近い。日本文化は、外から来たものをそのまま置くのではなく、自分の音、自分の器、自分の食卓に合わせて再配置する。インド由来の仏教と言語学も、そうやって日本語化された。
次に読む
仏教由来の日常感覚はお地蔵さんから無常観まで、日常日本に入ったインドへ。物質文化としての証拠は正倉院を見ると、日本にはすでにインドが入っているへ。